| 『 気 』 とは何か? |
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いきなりですが、皆さんは「気」の存在を信じますか?
このサイトは占いサイトなので、「気」の存在を信じる!と答えていただける方も多いかもしれませんが、世間一般では、そんなもの存在しない、あるいは、単なる迷信、と思われる方のほうが多いかもしれません。
しかし、実は「気」の存在は、信じる信じないというレベルの話ではありません。その捉え方は人によって異なるかもしれませんが、「気」は確実に存在し、人々に大きな影響を及ぼしています。
みなさんは、朝起きて締め切ったカーテンと窓を開け、朝日に向かって大きく伸びをして深呼吸したとき、すがすがしい、さわやかな気分になった経験があると思います。実は、コレがすでに「気」の影響なのです。
例えば、なかなか試す機会はないとは思いますが、夜中に目が覚めたときなどに同じような行動をとってみてください。夜中の2時、3時あたりがいいかもしれません。とても同じような気分にはなれないことがお分かりいただけると思います。
ここに存在している「気」は、もっとも基本的な「陽の気」と「陰の気」です。「光」は、人々の気分を高揚させ、積極的な気持ちを作り出します。一方で「闇」は人々の気分を沈め、消極的な気持ちを作り出します。
したがって、古代から人間は日が昇ると共に活動をはじめ、日が沈むとともにその活動を終え、心身の疲れを癒す時間に当てているのです。
現代においても、このサイクルを通じて大多数の人々は活動を行っています。もちろん、このサイクルと逆のサイクルで活動している人々もいますが、一般的な活動サイクルとは異なる活動をしてくれているということで、彼らにはより多くの賃金が支給されているのが普通です。
しかし、そのような活動サイクルは、心身に大きな負担を与えることも事実です。深夜労働を長期間経験された方の中には、疲れがなかなか取れない、あるいは、そもそもやる気がおきないなどといった体験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。
「闇」は、本来、人々にとっては不可欠な存在です。人は闇が存在することによって、その活動意欲を減退させ、自然な形で心身を癒す時間をつくることになります。しかし、その陰気のもたらす影響に逆らう形で意図的に活動し続ける行為は、人々に様々な「負」の影響をもたらすこととなります。
「闇」の恐ろしいところは、その「気」を受け続けると、やがてはそこで活動する人々の精神状態まで蝕んでしまうことです。通常、深夜労働をするような場合であっても、視界を確保すべく、一定程度の光源のもとで活動を行います。それでも闇の気は心身に何らかの不調をもたらします。
しかし、深夜労働の中には、その光源を意図的に抑制するような職場環境も決して珍しくありません。そのような状況下で活動を続けていると、しばしば人間関係にまつわる深刻なトラブルに悩まされることとなります。
そのトラブルが原因で心身に大きな問題を抱えてしまい、日常生活にも支障をきたしてしまうなどといったケースも決してめずらしくありません。 |
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もう一つ例をあげてみましょう。みなさんは肝試しなどといって「心霊スポット」を訪れた経験はありませんか?経験のない方でも、テレビなどでそれらの場所をみたことはあるのではないかと思います。
その心霊スポットを見て、どういった印象をお持ちになりましたか?多くの方は、そこに何か重苦しく澱(よど)んだ暗い空気が充満しているように感じたのではないでしょうか。
そもそも「肝試し」と称している時点で、皆がそこに重苦しく澱んだ、陰湿な気配を感じている確たる証拠なのですが、実際にそのような地域・建物に足を踏み入れた瞬間、大きく自分の身体の自由が奪われる現実を実感することとなります。
足を前に出そうと心では思ってみても、足がすくみ、なかなか思い通りに動いてくれません。どんなに小さな物音にも大きな恐怖心を覚え、寒くないはずなのになぜか鳥肌が立ってきます。また、常に誰かに監視されているような視線を感じることも少なくありません。
ここに漂っている重苦しく澱んだ空気(雰囲気)が「気」そのものなのです。
ここでは「闇」、「静」、「苦」、「冷」、「悲」などといった様々な陰気が複合的に折り重なった状態で人々の心身を強烈に支配します。
なかでも最も人々に強い影響を及ぼすのはやはり「死」という概念でしょう。「死」には単なる「動から静への変化」だけでは説明することのできない深い悲哀の念が同居しています。
「生」の存在から「死」の存在への変化。そこには、決して人々の力では覆すことのできない不可逆的、絶対的な「静」というものが存在しています。
心臓が止まるという現象は、その人の思いや経験、人との関わり全てを遮断し、その人にとって再び時が流れることは決してないという決定的・絶対的な「静」という現実を私たちに突きつけます。
上において「死」を概念と称し、陰気と表現しなかったのには理由があります。
「死」という概念は「生」との対照概念ではありますが、「死」は「生」の持つ活動的なエネルギーを完全に失った「完全なる静」を意味します。
一般に「明と暗」、「光と闇」といった表現を使用する場合、両者の存在を前提とし、再び相反する存在が訪れることを無意識のうちに想定しています。したがって、例えば、「暗」といっても、世界中の全ての明るい存在を否定して表現することはあまりありませんし、「闇」と表現したところで、光の存在がこの世から消えてしまうことを前提にして表現することはほとんどないでしょう。
つまり、陽と陰という概念は、いわば「気」のもつエネルギーの相対的強弱や消長の循環を通じて認識するのが一般的です。夏といえば陽気に満ちていますが、冬だからといって陽気が存在しないわけではなく、陽気が相対的に弱まっている状態を表現しているに過ぎません。
しかし、「死」という概念は、二度と活動することのない、いわば、「完全なる陰」を意味します。そこには、もはや「気」は一切存在していません。完全なる闇、完全なる静を意味し、いかに人智を尽くしても再び活動を始めることは決してない不可逆的な概念であるといえます。
この「死」によって肉体から失われた「気」の存在を、人は様々な形で「有形的」に感じ取ることになります。ある者は、かつて肉体に宿っていた、本来は大自然へと還るべき「気」が、行き場を失い、苦しみや悲しみとともにそこに留まり続けている状態を、視覚的・聴覚的に感じたり、またある者は「霊気」を「冷気」として体感温度によって感じ取ることになるのです。
このような点を、多くの現代人は一般的に『迷信』と捉えることになります。しかし、どんなに「気」の存在を否定したところで、人は「気」の影響から決して免れることはできないでしょう。
あまり、好ましい例ではありませんが、真夜中にたった一人で、誰にもその事実を告げることなく、”心拍数計”を装着した上で、廃墟と化した病院を訪れる姿を想像してみて下さい。
そして、その廃病院の地下にある霊安室まで赴き、かつてご遺体の安置されていた寝台に腰を掛け、自らの姿を写真に収める、という計画を実行したと仮定してみて下さい。
この一連の行動を通じて、心拍数計が平静と同じ状態を保ち続けられると思いますか?
もちろん、このような計画を実際に実行する必要はまったくありませんし、実行すべきようなものでも決してありませんが、自分の心と正面から向かい合うことのできる人であれば、心拍数計以前に”とても完遂できない”とお感じになるのではないでしょうか。
先の例において、夜中に窓を開けて大きく伸びをしながら深呼吸をしても、すがすがしい気持ちになれないだけで済んでいるのは、夜中といっても家の中には電灯があり、路には街灯があり、空には月や星が輝いていて、二度と光が訪れないなどと想定する必要がないことを十分に承知しているからです。
「死」が意味する完全な「静」は、完全なる「闇」を意味します。そこには電灯も街灯も月や星の明かりも一切存在しません。完全な闇の中では、自分自身がどのような姿をしているかすら認識できず、そこには絶望しか存在しないのです。
なぜ、自殺の名所なる地域が存在するのか、その理由がお分かりいただけた方も多いのではないかと思います。「気」という存在は、人々の心身を強烈に支配するということを決して忘れてはなりません。
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人間関係についても、同様に「気」の存在をうかがい知ることができます。
よく、話をしたこともないのにぱっとみた印象だけで「あの人とはうまくやれそうだ」とか「あの人とはどうもうまくやっていけそうにない」などと直感した経験をほとんど全ての方がお持ちだと思います。これも相手が発している、あるいは持っている「気」が自分と合致するかどうかを直感的に判断しているからに他なりません。
ただし、ここで感じる気は、単純に陽気か陰気かということばかりではありません。いわば「気の種類」のようなものを感じています。自分の持っている気と相手の持っている気、その関係が合致するかどうかを判断しているのです。これが気の相性ということになります。
恋愛についてはどうでしょうか?誰もが人を好きになります。しかし、なぜ好きになったのか、その理由を明確に説明できる人など存在しません。
よく、芸能人の結婚会見などで、リポーターが、「彼(彼女)のどこを好きになったのですか?」という趣旨の質問をすることがあります。無茶な質問ですよね。
彼(彼女)はお互いの「気」が合致し、相互に信頼関係を構築したと感じたからこそ、その絆を証明するために結婚するのであって、「どこを?」と質問されれば、「全て」とか「やさしいところ」などと曖昧に答えるほかないでしょう。
逆に「彼(彼女)のこういう点が、自分には利益となり〜」などといい始めたら、それこそ「本当に好きなのですか?」と疑いたくなってしまうかもしれません。
世の中には何十億という人々が存在します。しかし、人はその中から自分にとって、心の許せる存在を見つけ出す術をおのずから身につけています。もちろんこれは恋愛に限った話ではありません。共通の目的を達成するための仲間だったり、悩み事を相談できる親友と呼べる存在であったり・・・。
しかしながら、現代の人々は、生きるために身につけてきた「気」を感じる力を理解しようとすることなく、表向きのやさしさや建前だけの倫理観、あるいは金銭的な価値基準で、相互の信頼関係を構築しようと試みたり、あるいは信頼関係を構築したものと誤解してしまう傾向があります。
したがって、当然のことながら自身の判断が間違いであったと、後で気づくケースも頻発することになります。離婚率の激増などはこのことを象徴しています。
そして、さらに問題となるのは、信頼関係というものを安易に考えすぎるために、その関係がそもそも構築されていない場合の対応を大きく誤ってしまうことです。
例えば、かつて恋愛感情のあった相手に対し、もう好きではなくなったからといって、「同じ空気を吸いたくもない」とか、「顔を見るだけで吐き気がする」、さらには「この世から消えてくれ」などと、相手の人間としての尊厳すら否定しかねない暴言を、面と向かって平気で吐いてしまう人がいます。
このような発言が平気でできてしまうというのは、よほど相手との「気」が合わなかったということなのでしょう。
しかし、世の中に存在するのはなにも自分だけではありませんから、自分が相手の存在を否定するような言動を行うということは、相手も自分に対して、同様の言動をおこなうことを許容したも同然です。
ましてや、まったく「気」が合っていないわけですから、そのような暴言を吐く存在を、逆にこの世から消してしまおうなどと思う人が出てきても決して不思議ではありません。
現在はそのような行為は「殺人」などの罪になりますが、ほんの200年ほど前であれば、罪にさえ問われないことも普通でした。現在の倫理観など、戦後60余年の間に構築された一時的な倫理観でしかありません。(もちろん、現在とて事件化されてない殺人など無数に存在していることでしょう。)
現に、戦前においては「天皇」を崇拝し、そのためには自身の命をもいとわない精神を有することが美徳とされてきました。
当然、現在のような倫理観が未来永劫継続する保証はありませんし、それが歴史的にみて、おかしいことでも何でもありません。しかも、現在美徳とされているような倫理観の多くが、所詮は建前上のものであることをほとんど全ての人々がうすうす感じていながら、表向き正しいかのように振舞っているに過ぎません。
殺人が罪になるからといって、法に守ってもらうことを前提にするのではなく、出来ることならこういった争いの火種は未然に防ぎたいものです。
法によって守られることのなかった昔の人々が、人間関係における「気」の一致・不一致や人と人との信頼関係に対して、現代の人々よりはるかに敏感であり、これらを重視していたことは想像に難くありません。
また、相互の信頼関係を重視していた人々にとっては、現在の社会問題である孤独死など、ほとんど問題になることはありませんでした。
皮肉なことに、人の価値はある意味、死んだときにわかります。自分の死を、一体どれだけの人が本当に悲しんでくれるでしょうか。そもそも、自分が死んだときにお葬式をあげてくれる存在はいるのでしょうか。それ以前に、自分の死にすぐに気付いてくれる存在はいるのでしょうか。
自我を主張し、物質的欲望を重視するあまり、他人との協調・調和を大切にせず、人間関係がこじれてしまった際に、その修復を一切試みようとしない人々が急増しています。しかし、そのような人たちは、いざ、誰かの助けが必要となった際に、周りには信頼の置ける存在が誰もいない現実に気付かされることとなります。因果応報とはまさにこのことをいうのでしょう。
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太古の人々は「気」という存在を早くから認識し、それを理解しようと英知を絞って思想を巡らせました。そして、その結果として生み出された数々の崇高な哲理は、何千年の時を経た現在においても脈々と受け継がれています。
真気九星学は、古代東洋に起源を有する数々の思想哲理に目を向けることによって、人々に多大な影響を及ぼす「気」の存在を理解し、それを人々の開運に役立てようと考える思想哲学です。そして、その価値観を共有する人々との間に相互の信頼関係・協力関係を構築し、「人の和(じんのわ)」を形成することによって、お互いを一層の成功へと導こうと考える、人と人とのつながり(コミュニティー)を極めて重視しています。
人は決して一人では生きていくことができません。しかし、逆に、人と人とが相互に理解しあい、協力し合うことによって、想像もつかないような大きな力を発揮することができるようになります。
「気」とは何か?を一言で説明するのはなかなか容易ではありませんが、思想哲学的に言えば、「大自然や生命を形成する根源的な要素およびその働き」といったようなものになるのではないでしょうか。
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