『真気九星学(しんききゅうせいがく)』とは、「九星」を「天の気(十干)」と「地の気(十二支)」の交合により、人々の周囲に配される「人の気」と明確に定義し、十干、十二支のみならず、陰陽思想、五行思想、八卦(易)、三才のほか、日本で独自の発展を遂げた「陰陽道」の思想を一部取り入れることによって論理構成した、開運のための思想哲学です。
といっても、古代東洋思想にあまりなじみのない方には何を言っているのかさっぱりわからないかもしれませんね。
日本には古代東洋思想をその背景にもつ様々な占いがあります。「四柱推命」や「風水」、「姓名判断」などが有名です。その中に「九星」という名を冠した占いを耳にした事がある方も多いのではないでしょうか?
「九星」もその歴史は非常に古いのですが、九星が数多くの暦注に登場し、人々にひろく知られるようになったのは明治の改暦(1872〜1873)以降だといわれています。
明治政府は、この改暦により猛烈な思想統制を図りました。当時、伊勢神宮が発行していた「神宮暦 - じんぐうれき」(本暦)のみを官暦として認め、これ以外の暦は偽暦として処罰の対象とするほどの徹底ぶりで、この改暦により、従来日本で信仰されてきた数々の暦注や方位神が闇に葬り去られることとなりました。
迷信云々をその題目に掲げてはいますが、神々の啓示は為政者の言葉よりもはるかに尊重されるわけですから、結局のところ、国民を意のままに操りたい為政者にとってはまさに「目の上のたんこぶ」だったというわけです。
もちろん、この思想統制が後に第二次世界大戦を招き、多くの国民を死に至らしめたことは言うまでもありません。(この思想統制が解除されたのは第二次世界大戦終了後です。)
しかしながら、いくら禁止したところで、その出所を隠蔽した民間の暦(おばけ暦)が人々の間に密かに広まり、そこに書かれていた「六曜」は、現在においてもその影響を色濃く残しています。
九星もその中の一つでしたが、九星そのものに明確な吉凶があるわけではなく、また、その解釈は非常に難解であったため、六曜のように人々の間に広まることはありませんでした。
明治の後半から大正にかけ、園田真次郎氏によって、九星は「気学」としてその体系の根幹に組み込まれ、急速に人々の間に広まるようになりました。現在でも九星といえば気学が想起されるほど、その影響は大きかったといえます。
「麗(管理人)」も、九星との出会いは他ならぬ「気学」でした。
「気学」の体系は非常に簡潔であり、また、運勢判断から方位術、家相に至るまで、あらゆる分野に適用が可能であるとされたため、万能な占術として広く人々に知れ渡ることになりますが、残念な事に「気学」は、その時代背景も手伝って、古代東洋思想にその思想的基盤をおいているにもかかわらず、古代東洋思想からは到底想起できないような数々の致命的な論理的矛盾をその根源に抱えてしまっているといわざるを得ません。
しかし、このサイトは決して気学を批判するためのサイトではありませんし、気学が成立した時代背景等を鑑みれば、気学がそれらの問題を抱えてしまっていたところで、それを批判すべきものでもありません。また、麗(管理人)にとって、気学が「九星」という思想概念と出会う機会を与えてくれたのは紛れもない事実であるため、この場において、それらの矛盾点について個々に言及することは差し控えさせていただきます。
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