| 九星について その5 |
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前項までの九星に関する一連の記述で、九星の成立背景や八卦との関係、命星の哲理、遁甲の方式や九星の年月日刻への配当方法などについて述べてきました。
この項では本命星・月命星・日命星・刻命星が、それぞれ人々にどのような影響力を持つのかについて『真気九星学』における解釈を述べていくことにします。
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命星の影響力
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命星の哲理の項で自身の生年月日刻に、それぞれの次元において方位盤の中宮に回座する九星が自身そのものを意味することは説明しましたが、それではこれら4つの九星が一体自分にどの程度の影響力を持つと考えればよいのでしょうか。
年盤・月盤・日盤・刻盤それぞれが、ある一定の期間、例えば1日の間に人々に及ぼす影響力には差は生じません。年盤・月盤・日盤・刻盤において異なるのは九星が一定の方位にとどまる時間の長さであり、年盤においても、刻盤においても1日の長さは24時間であり、1440分であり、86400秒であり、この尺度が変わることはないからです。
では、本命星・月命星・日命星・刻命星に、その影響力の差はないといえるでしょうか?私たちよりもはるか昔の人々は、本命星のみによって占いを実践していました。もし仮に命星の影響力が全て等しいとするのであれば、彼らは自身に対して25%の影響力しか有さない「気」をもとに諸般の運勢を占い、方位を導出していたことになります。
しかし、そんなことは決してありません。本命星を用いて占術を施すことによって、しっかりと開運を導くことはできたのです。
これは、各次元の方位盤に回座する九星がその方位にとどまる時間の長さが、自分自身を構成する割合そのものであるからです。
人はこの世に誕生するまでの間は、いわば先天定位盤の支配する世界に存在することになります。もっとも、先天定位盤には自分自身の存在はありませんから、それらの影響を受けることはありません。しかし、生まれた瞬間に、自身のいわば「純白のキャンバス」が、人の気によって染め上げられることとなるのです。
真っ白なキャンバスは、人の気が一方位にとどまり続けるほど、その色に深く染まることとなります。必然的に一方位に九星がとどまる時間の長い本命星が最も強く自分自身を染め上げることになります。
本命星は最大で1節年間、キャンバスを染め上げます。
月命星は最大で1節月間、キャンバスを染め上げます。
日命星は最大で1日間、キャンバスを染め上げます。
刻命星は最大で1刻(2時間)、キャンバスを染め上げます。
上記をよりわかりやすくするため、閏や節の概念等を一切廃し、至極単純化した上で単位を揃えて書き直してみると、
本命星 : 最大で365日間(8760時間)
月命星 : 最大で30日間(720時間)
日命星 : 最大で1日間(24時間)
刻命星 : 最大で0.083日間(2時間)
各人の生年月日刻によって、各命星の各人に占める比率は異なりますので、上記をもって単純に影響力の差とすることはできません、しかし、一見して本命星の自身に対する影響力の圧倒的な大きさがわかることと思います。
そして、私たちよりもはるか昔の人々が、本命星によって開運を導いていたことの意味が理解できることと思います。
真気九星学においては、『各人の生年月日刻における命星が中宮に回座している時間の長さの違い』を、それぞれの命星の影響力の違いと解釈します。
なお、細かい話になりますが、日家九星や刻家九星は陰遁および陽遁の切り替えが発生するため、日家九星については2日間、刻家九星においては4時間、同一の九星が中宮に回座する場合があります。この局面において誕生した人は、これを命星の影響力に考慮する必要があるのかという事についてですが、結論から言えばこれを考慮する必要はないと解釈します。
理由を簡潔にいえば、真気九星学では、中宮において新たに誕生した生命を構成する気となった命星は、『新たな生命が人生の旅路を歩み始めると共に方位盤上の各方位へと旅に出る』と考えることによります。
同会法により静的な運勢を推察することもこの考え方に由来します。
一度誕生した命は、その命が尽きるまで人生という長い旅路を歩み続けることとなります。中宮に回座する九星が日や刻の区切りをまたいだ結果として、回座する九星が変わろうが、変わるまいが、一度歩みだした人生が止まるわけではありません。したがって、日や刻の区切りをまたいだ時点において、命星は、いまだ不完全ながらも人生の旅路、すなわち方位盤上の各方位へと歩みだすことになるのです。
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刻盤・刻命星の占術における扱い
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『海外旅行へ行った際、九星配当の基準となる時間は、現地時間を採用するのか日本時間を採用するのか?』
方位や時刻を扱う思想哲理を実践するにあたって、必ず考えなければならないのが方位や時刻の基準です。
まず、上に掲げた疑問に対する答えは、「現地時間を採用する」です。この理由は、例えば、現地において太陽が昇っているのに、日本では太陽が沈んでいるような状態で、太陽が沈んでいる時間を基準としても、思想哲理が体現されないことは明らかであるといえるからです。
ただし、この考え方を突き詰めていくと、自身の生年月日刻を時差修正する必要があるのか?という、非常に大きな問題に発展してしまいますので、これらの点も含めて詳しく述べておくことにします。(長いです・・・。)
世界中で使用されているローカル時間は、たとえ時差が勘案されているとはいえ、それが必ずしも理論上の正確な時刻を表示しているわけではありません。
そして、このことは決して海外に限ったことではありません。
以下は日本の最東端と最西端の経度です。
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| 最東端 |
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東京都小笠原村南鳥島 |
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東経153度59分11秒 |
| 最西端 |
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沖縄県与那国島 |
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東経123度00分17秒 |
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経度にして30度58分54秒の差があります。
地球の時差を単純に表すと、360÷24=15となるため、経度15度につき1時間の時差が発生することとなります。実際にこれらの地域において時刻を利用する機会があるかないかは別問題として、両地域の間には2時間強の時差が理論上存在するということになります。
日本においても中央標準時と西部標準時として、1時間の時差が存在していたことがあります。(日本統治下の台湾などで西部標準時が使用されていました。)
かつて、日本標準時は兵庫県明石市を通る東経135度の子午線における地方平均太陽時(天文時)と定義されていました。上に掲げた最東端と最西端の時差はこの定義のもとで計算した大まかな時差です。しかし、現在私たちは独立行政法人情報通信研究機構の原子時計で生成・供給された協定世界時(UTC)を9時間進めたUTC+9(原子時)を使用しています。
さて、話がややこしくなってしまったので、ここでは原子時は除外し、天文時について考えていくこととします。
自身の生刻をご存知の方もいらっしゃるでしょう。しかし、それはおそらくカルテに記載された時刻でしょうから、その時刻は経度による時差を考慮している生刻ではないでしょう。
もし、占術において時刻を厳格に適用する必要があるとするならば、東経135度の子午線を基準として時差を計算し、生刻を修正しなければなりません。生刻の修正は、場合によっては生年・生月・生日にも影響を及ぼしますので、安易な計算であってはなりません。
しかし、そこで計算に用いる生誕場所の経度はどこまで正確に再現できるでしょうか?横浜や名古屋といった地域までで十分でしょうか。いやいや、これでは「正確」からは程遠い計算結果しか導けません。生誕した病院?いやいや、分娩室の経度が必要でしょう。では分娩室のどの地点の経度を算定基準に用いるのでしょうか?・・・。
もし仮に、それらの地点の経度を極めて正確に時差に反映させることができたとしましょう。
しかし、そもそも自分が認識している生刻というのは、「おぎゃー」と泣いた時なのでしょうか?それともお母さんのお腹の中から出てきた瞬間なのでしょうか?あるいはお医者さんがカルテに出生時刻を書こうと思って、たまたま腕時計に目をやった瞬間なのでしょうか?お医者さんの時計が1分狂っていた可能性はないのでしょうか?秒針についてはどうでしょうか。秒針は切り上げたのでしょうか?それとも切り下げたのでしょうか?
もうたいていの皆さんにはお分かりいただけたと思います。人間は思想の中において、時刻を概念として正確に認識することはできますが、実生活において、とどまることなく流れ続ける時間を正確に切り取り、それを認識した上で寸分の狂いなく応用していくことなど不可能なのです。
占いの中には、二十四節気に関し、その時刻を分単位まで正確に計算しているから「この占いは他の占いよりも優れている」などと主張するものもあるようです。円周率が小数点以下1兆桁以上も計算できる現代において、はたして「分」程度で正確なのでしょうか?
もし、仮に正確な時刻が計算でき、それを人間が実生活において認識し、応用できたとして、そもそもそれが古代東洋思想のどういった哲理を体現することにつながるのでしょうか?陰陽思想や五行思想がそのような哲理を説いているのでしょうか?移り行く時の流れを重視しているとは思いませんか?
出産についても同様のことがいえます。子供は母親のお腹の中から、時の流れとともに、次第に体外に出てくるのであって、当然のことですが、ある時突然、ぱっと瞬間的に姿を現すようなものではありません。
二十四節気は瞬間の正確さが重要なのではありません。太陽暦ではない暦を使用していた人々が季節感を見失ってしまわないようにするための指針となることが重要だったのであって、太陽黄経○○度を通った瞬間が重要なのでは決してありません。
逆にそのような瞬間を重視してしまえば、月の変わり目と日の変わり目には何の関係も存在しないことになります。
もし、立春点が2月3日23:59分だった場合には、新年(節年)の初日と認識できる時間はたったの1分間しか存在しないという事になってしまいます(2021年がこの例に該当します)。これでは新年の挨拶すらろくに交わす時間もありません。
月の変わり目と日の変わり目が異なるなどという不自然な概念は、古代東洋思想の体をなしていないばかりか、現実社会においても、とても受け入れられる概念とはいえません。
古来から続く人々と「日」との関わりを鑑みれば、節入りは「日」の認識で行うべきですし、本質的には恒気法で何ら問題ないのです。事実、古代の人々は恒気法によって二十四節気を認識していましたし、その認識のもとに占術を行っていたのです。
時間というものを突き詰めていくと、最終的には、その行為が占術にとってあまり意味のあることではないという事に気づくこととなります。
しかし、時刻の区切りは年・月・日の区切りに影響することも事実です。だからこそ、それぞれの地域で、そこに住む人々が生活を営むための指針として用いている、『生きた時刻』の概念とともに1日を認識すればよいのです。
日本では東経135度線を基準に時刻を認識していますが、例えばロシアにも東経135度線が通る地域が存在します。しかし、その地域ではウラジオストク時間を使用していて、冬時間でJST+1、夏時間でJST+2なのだそうです。
そこに住んでいる人々が生活を営む上で指針として用いている時刻が理論上の時刻と異なっているからといって、それを間違っているといえるのでしょうか?そんなはずありません。
ウラジオストク時間を使用している地域で占術を行うとすれば、夏時間まで考慮する必要があるかどうかはともかく、ウラジオストク時間をもとに占術を行えばいいのです。
ただし、自身が認識している時刻は、その地域が帰属する国家が便宜上使用を推奨または強制している標準時刻であることがほとんどであって、必ずしも理論上の正確な時刻とは限らず、だからといって、正確な時刻を求めたとして、それがある時点において仮に正確な時刻であったとしても、自身が移動するのとともにわずかながら確実に変化する経度を随時把握し、その経度に基づく正確な時刻を一刻一刻寸分違わず認識し、利用していくことなど不可能であり、万が一、それを利用できたところで、その行為が古代東洋思想の哲理を体現するあたって、ほとんど意味をなさないということも十分に自覚しておく必要があるのです。
真気九星学が、その理論として刻盤の存在を認識し、刻命星の存在を肯定したとしても、これらを積極的に占術に体現することはありません。
そこに住む人々が生活を営むための指針として用いている、『生きた時刻』の概念にもとづく1日を尊重します。
すなわち、占術を行うに当たって、生刻を理論上正確とされる時刻に修正することはありません。しかし、修正しない生刻をもとに導出される刻命星を積極的に占術に用いることもありません。
一方で、仮に生刻を修正すれば明らかに生日が変わるような日付の境界付近で誕生した人の日命星までをも、占術に用いないということではありません。あくまで自身の生年月日から求まる日命星は自身の日命星と解釈します。本命や月命についても日命と同様です。
これが真気九星学における、『生きた時刻』の概念にもとづく1日を尊重するという意味です。
「九星 恋の占い館」において刻盤の方位吉凶評価を総合吉凶評価に勘案していないのも上記の理由によります。
刻盤において、九星は1刻(2時間)という非常に早いペースで九宮を遁甲しています。これは、人生において全ての吉凶方位を正確に把握し続けることなど決してできないということを私たちに教えてくれているものと解釈します。しかし、だからといって、自身を開運へと導くことができないという事にはなりません。より大きな時間の流れを多いに利用し開運へと導けばよいのです。
『真気九星学』は、自身の生まれ刻がわからないから占術を実践することができないなどという選民的思想は一切持ち合わせていませんし、これによって正確な占術結果を導くことができないなどということも一切ありません。
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なお、『夏時間』に関してですが、こんなものは為政者による権力の体現にほかなりません。各月の日数の凹凸が不規則なのは、人々の生活と密接にかかわる暦が、為政者による権力の体現に歴史的に利用されてきた証左です。休日に関しても同様です。政権が大きく変わると、決まって休日をいじろうと試みます。時間を有効に使おうなどともっともらしい理由をつけて、1日に時間の凹凸をつくり、人々をそれに従わせようというわけです。
西洋社会において、夏時間導入に対する抵抗が少ないのは、西洋の人々の根底を支える思想が、大自然の哲理に直接依拠したものではないからでしょう。クリスマスという祭日を日曜日とくっつけて連休にしようなどと安易に提起しようものなら大反発は免れないでしょう。
夏になれば日照時間が長くなるのは当然なのです。しかし、それは使用している時刻が一定のルールに基づいて一定の間隔を刻むことによって初めて実感することのできる大自然の哲理であって、日照時間が長いからといって、いちいち時刻をコントロールされては、自然を尊ぶ大切な思想を育むこともできません。
日照時間の長短は人々が肌身で感じることであって、それをどのように利用するかは各個人や団体が任意に決めればよいことなのです。時代によってころころと入れ替わる為政者たちにいちいち指図される筋合いのものではありません。
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